音楽を持つこと。
いつから音楽を連れて歩かなくなっただろう。
その疑問はそっくりそのまま音楽への感心の薄れを象徴している。
いつでも携帯できてしまうからこそ、音楽はもうすでに連れて歩きたくなるようなツールではない。
まだストリーミング、ユーチューブなどが当たり前になる前、携帯プレーヤーの中は自分だけの価値を詰め込んだ宝箱みたいなものだった。
思い思いの好みの曲を詰め込んで、今日は何を聴こう、君はどんな音楽を聴いているの、と聞き合ったりして、そのときだけの感覚を楽しもうとしていたんだと思う。
曲自体の価値も今よりももっと高かったと思うし、ある意味で同じ感覚を持って皆同じような曲を聴いていたんだなと今になって思う。
CDを買うにしても1枚3000円程度する高価な買い物だから、どのアーティストのどのCDを買うかは今よりも真剣だった。
使い古された内容なので、何処かで書かれている記事の二番煎じでしかないかもだが、CD1枚の中にはハズレ曲があったりするので、欲しい曲だけを買うという選択肢がまずなかった。
なので今がいいと言う論調も否定できないが、意外とそのハズレ曲もアルバムを何十回と繰り返し聴いていると、スルメのように味が出て、身体に馴染んで来る場合がある。
そして意外とそういう曲を覚えていたりする。
今はバイナルなどのアナログがリバイバル中とのことだ。
溝に針が触れて物理的に音を鳴らすもの。
音を所有した感覚。
この感覚はデジタルでは得難いものなのだろう。
物体ではなく、情報を買うことが普通になっている時代。
だからこそ、アナログが見直されているのだと思う。
手元に音楽を持っている、その感覚は自分だけの特別な体験だ。
この話は音楽を持ち歩くとはまた別の話のようだが、結局は所有している感覚があるか無いかで言うと、非常に似ている感覚だと思う。
携帯プレーヤーにこれでもかと曲を入れていたのは、何処か所有していたいと感じていたからに他ならない。
今はまたアナログのショップが多くなっているように思う。
本当は昔からあっても気がつかなかっただけかもしれないが、アナログしかなかった時代と比べてデジタルが普通にあるこの時代では、
より俯瞰した感覚でバイナルなどのアナログを見ることができる。
デジタルでも手に入る音をあえてアナログで手に入れる行為は、より贅沢で、充足感に満ちた体験となる。
その体験のために時間とお金をかけることは逆行ではなく、より進歩した感覚なのだ。
音楽は音を聴いてこそ価値が生じるのはその通りだが、それ以前の自分の価値観を証明する一つのツールになり得ていたと思うのだ。
証明のために所有する。
いつでも何処でもネット環境さえあれば、あらゆる曲が聴けるようになった時代。
素晴らしいことだ。
でももう音楽を持ち歩くことに興味が湧かない。